「トレッキングポールなんて、邪魔なだけだ」
かつて、私もそう思っていました。日本の山は岩場や鎖場が多い。両手がふさがると、かえって危険じゃないか? 周りのベテラン登山者も使っていない人が多いし、自分には必要ないだろう——。そんな思い込みが、私の膝を、そして心を蝕んでいったのです。
あれは、夏の北アルプス、憧れの縦走ルートに挑戦した時のことでした。初日は快晴、足取りも軽く、高揚感に包まれていました。しかし、二日目の午後、突然の雷雨に見舞われ、道はあっという間にぬかるんだ泥濘と化したのです。急な下り坂、滑りやすい木の根、視界を遮る雨。一歩踏み出すたびに、膝にズキンと響く鈍い痛み。「ああ、これはまずい…」。心臓がドクドクと警鐘を鳴らし始めました。
「なぜ、私はこんなにも無力なんだろう…」
転倒の恐怖と、じわじわと広がる膝の激痛に、私は完全に自信を失っていました。後ろから来る登山者には道を譲り、顔を上げることさえできない。情けない、恥ずかしい、このままじゃ、憧れの山頂どころか、下山すらままならないのではないか。家族に心配をかける、そんな最悪のシナリオが頭をよぎりました。あの時、もしトレッキングポールを持っていたら…いや、持っていたとしても、どう使えばよかったのか? そもそも1本でいいのか、それとも2本必要なのか? そんな後悔と疑問が、雨粒とともに私の頬を伝いました。
その夜、山小屋で偶然隣り合わせたのは、白髪交じりのベテラン登山家でした。彼は静かに私の話を聞き、「兄ちゃん、ポールはな、ただの杖じゃないんだよ」と優しい口調で語り始めました。彼のザックには、使い込まれた2本のトレッキングポールがしっかりと固定されていました。
「日本の山は独特だ。だからこそ、使い方も工夫が必要なんだ。欧米の広々としたトレイルとは違う。岩場や急登では、確かにポールは邪魔になることもある。だからといって、全てを否定するのはもったいない」
彼の言葉は、私の凝り固まった常識を少しずつ溶かしていくようでした。
後日、私は地元の登山用品店を訪れ、店員さんに相談しました。
「日本の登山道では、1本使いと2本使い、どちらが主流ですか?」
店員さんは笑顔で答えました。「それは、登る山とあなたの登山スタイルによりますね。例えば、アルプスの縦走や重い荷物を背負うなら、2本使いが断然おすすめです。特に下りでの膝への負担軽減効果は絶大です。ある調査では、トレッキングポールを2本使うことで、膝への負荷が最大で25%も軽減されるというデータもあります」
私は驚きました。25%とは、想像以上の数値です。
「一方で、岩場や鎖場が多い低山、あるいはファストハイクのように身軽に動きたい場合は、1本使い、あるいは使わないという選択肢もアリです。状況に応じて使い分けるのが賢い選択ですよ」
彼は続けて、私の膝痛の経験を聞くと、「日本の登山事故で最も多いのは転倒です。特に下山時の疲労が蓄積した状態で起こりやすい。ポールは、まさにその転倒リスクを減らす『第三の脚』なんです」と力説してくれました。
私は思い切って、軽量な2本のトレッキングポールを購入しました。そして、まずは近所の低山で試してみることに。最初は、やはり「邪魔だ」と感じる瞬間もありました。特に、急な岩場ではポールを畳んでザックに固定し、両手で岩を掴む。しかし、なだらかな土の道や、ゴロゴロとした石の道を下る時には、その真価を発揮してくれました。
一本一本、体重を分散させながら着地するたび、膝への衝撃が明らかに和らぐのを感じます。まるで、足がもう二本増えたかのように、安定感が格段に向上するのです。「これは…今まで損していたかもしれない!」心の中で叫びました。
日本の登山道でトレッキングポールを最大限に活用するには、その特性を理解し、状況に応じて使い分ける「賢さ」が求められます。
【1本使いのメリット・デメリット】
- メリット: 片手が自由に使えるため、岩場や鎖場、カメラ撮影などで便利。荷物が増えず、軽量化しやすい。初心者でも扱いやすい。
- デメリット: 両膝への負担軽減効果は2本使いに劣る。バランス保持能力も2本使いには及ばない。急な下りでの安定感は限定的。
- 最適なシーン: 比較的平坦な道、鎖場や岩場が多いが緩やかなアップダウンの山、日帰りでの軽量登山、アプローチが短い山。
【2本使いのメリット・デメリット】
- メリット: 膝や腰への負担を大幅に軽減(特に下山時)。体重を腕とポールに分散できる。全身運動になり、疲労分散効果も期待できる。悪路やぬかるみ、雪渓での安定感が飛躍的に向上。転倒リスクを大幅に低減。登りでの推進力アップ。
- デメリット: 両手がふさがるため、岩場や鎖場では収納が必要。荷物が増える(重量・かさばり)。価格が高くなる傾向。慣れるまで使い方にコツがいる。
- 最適なシーン: 縦走、テント泊、重い荷物での登山、急登・急下りが多い山、雪渓やガレ場、長距離のトレイル。
トレッキングポールは、まさに車の「四輪駆動」のようなものです。普段の舗装路(平坦な登山道)では二輪駆動(自分の足だけ)で十分かもしれません。しかし、悪路(ぬかるみ、ガレ場)や急坂(急な下り)では、その真価を発揮し、安定性と走破性を劇的に高めてくれます。決して「邪道」などではなく、あなたの登山をより安全に、より快適にするための「強力な相棒」なのです。
「でも、日本の山では邪魔になるって聞くし…」
そうですね、私もそう思っていました。しかし、それは「使い方を知らない」だけだったと痛感しています。ポールは常に地面についている必要はありません。使わない時はザックに畳んで固定する。岩場や鎖場では、迷わず収納する。この「使い分け」こそが、日本の山でポールを賢く活用する秘訣なのです。
「ポールを使うと、足腰が弱くなるのでは?」という声も聞きますが、これは誤解です。ポールは足腰の負担を軽減し、長く登山を続けるためのサポートツールです。むしろ、膝や腰を痛めて登山を断念するリスクを考えれば、積極的に活用すべきでしょう。
あの夏の、膝の激痛と後悔に満ちた下山から数年。今、私は日本のどんな山にも臆することなく挑戦できています。もちろん、トレッキングポールは私の「第三の脚」として、いつもザックに忍ばせています。状況に応じて1本、あるいは2本を使い分け、時にはザックに収納し、岩場を軽快に登り、時には泥濘を安定して下る。
かつての私と同じように、「ポールは邪魔だ」と思っているあなたへ。
一度、その固定観念を捨てて、トレッキングポールと向き合ってみませんか? それはきっと、あなたの登山ライフに「安定」と「安心」、そして「自由」という新たな景色をもたらしてくれるはずです。
「もう、あの時の私のような後悔はさせない」
そう、心に誓って。
